陽の照りながら雨の降る。





小さな穴だ。

と、政宗は思う。






それは針の穴のような本当に本当に小さな穴なのだ。
その穴はいつも彼の心のどこかに、ひっそりと空いていてわずかな穴だというのに埋めることができない。
酒を飲んだり、女を抱いたり、部下とバカ騒ぎをしたり、小十郎と共に政を行っていても、ふとその穴が開いていることに気がつく。
ささいな穴なのに、その穴はいつも政宗の心の一番大切なところに空いている。

小さな穴なのだ。

と、政宗は思う。

父を政宗が殺してまだ幾月もたってはいない。
人質に取られた父を討つことに、政宗はなんの抵抗も抱かなかった。
むしろ、父からとってかわり自分がこの奥州を束ねることで、藩が抱える様々な問題がうまく機能していくのを感じる。
父は結局、藩主であるにはあまりに甘く、人が良すぎたのだ。
やさしさは弱さで、そんなものはこの戦国の世にはいらない。
それを教えたのは父で、そうならなかったのも父だ。
それでも政宗の小さな穴はちくりと心の一番大切なところに空いていて、いっこうに埋まろうとはしない。
これはこれでよいのだと、そう何度言い聞かせても。




穴なのだ。
決して埋まることのない。





月の美しい晩だ。と政宗は杯を傾けながら一人月見酒を楽しんでいた。
晩秋の名月とはよく言ったもので、今晩の月もいつにもまして冷たく美しく銀色に光っている。
冴え冴えとした空気は、先ほどの宴会での酔いを冷ましてくれる。
杯をゆらゆらとゆらし、今は一人上段の間で酒を楽しむ。
大広間ではまだ宴会が続いているのだろう。騒がしい声が風に乗って聞こえてきた。
「あんまりハメをはずすと小十郎にどやされっぞ。」と思いながら何杯目かの酒に口をつけると、早速、伊達藩名軍師殿の一括が聞こえてきたので、
政宗はのどの奥でくつくつと笑った。
さらさらと秋風が政宗の頬を撫でる。
こうしているときだけ、小さな穴のことを忘れていられる。


「殿。」
鈴の音が鳴るような声が背後から政宗を呼び止めた。それを聞いて政宗は後ろを振り向かずに目を細めた。
その声でその呼び名で自分を呼ぶ人間はたった一人しかいない。
「どうした愛。」
妻の名を呼ぶと、愛姫はゆっくりと政宗のそばに近寄った。
お邪魔ではありませんか?と愛姫が聞くので、邪魔しねえならな。と政宗は笑った。
「それでは。」
愛姫は花が綻ぶようににこりと笑うと、政宗の隣に座した。
「Huuum…本当に邪魔しねぇんだな?」
「殿がわたくしを邪魔にされたことなどございませぬでしょう?」
おつぎいたします、と愛姫は政宗の手から柔らかく酒を奪い、杯に注いだ。
全く、食えない嫁さんだぜ。と政宗は苦笑しながら愛姫のしたいようにさせてやった。
愛姫の美しい黒髪が秋風にゆれ、さらさらと音を立てる。
月明かりが愛姫の白く美しい顔を照らし出している。
この姫はわずか12歳で政宗に嫁いできた。以来ずっと政宗のそばにいる。
人の心は移ろいやすく、誰かを裏切ったり裏切られたりはあたりまえで、政宗は人というものを信じてはいなかったけれど、彼女はきっとこれからも自分のそばにいるのだろうと思った。
それは、堅実で確証のないことを嫌う政宗にしてはひどく甘い考えだったけれど、愛姫という女はそういう女であった。

政宗はなんとはなしに彼女の額にかかる髪を、そっと払ってやった。
すると、愛姫はこちらをその美しい黒い瞳で見返し、にこりと笑った。
政宗はそれに応えるようににやりと笑い、杯を持っていない方の手で愛姫の体をたぐり寄せた。
やわらかい愛姫の体が政宗の体に密着する。
政宗は愛姫の髪に顔をうずめ、猫のようにのどを鳴らした。
まあ、と愛姫は笑い、政宗のしたいようにさせてやりながら、その身を彼に預けた。
雲海がゆっくりと三日月を包む。大広間からかすかに聞こえる人の声と秋の虫の鳴き声に、政宗は耳を傾けた。
傍らには柔らかな存在があり、時はおどろくほどゆっくりと進む。

人間ほど、卑怯で醜くて裏切ったり画策したり本当に本当に弱い生き物などいないのに、こうして相手の体温をお互いに感じることがこんなにも幸せだと思えてしまうのだろう。
明日は死ぬかもしれないのに、明日は愛姫以外の女の閨にもぐりこんでいるかもしれないのに、それでもこの柔らかであたたかな小さな小さな存在は、こうして体を預け政宗を信じそばにいる。
それは幸せなことなのだろうか。不幸せなことなのだろうか。

秀吉いわく、大切なものを手に入れると人は弱くなるのだという。だから自分はねねを殺したと。
利家いわく、大切なものがあるから自分は強くなれるのだという。だから自分はまつと共に生きるのだと。

どれも本当で嘘はない。と政宗は思う。
ふと、愛の方をみると、その名のとおり愛らしい瞳で月をじっと見つめ、ときおり思い出したように微笑んだり、眉をひそめたりを繰り返している。
(何がそんなにおかしいのか、何をそんなに厭うのか。)

お前はいつもかわらずここにいて、そうしているのだろうか。

男ってのは、勝手な生き物だぜ、と政宗は笑った。明日も明後日も彼女の傍らにいるとは限らないのは、自分の方なのに。
「それでも、わたくしは政宗様の傍らにおりますわ。」
何も言っていないのに、愛姫がぽつりとつぶやくようにそう言った。
面食らっている政宗の顔を見て、愛姫はまたにっこりと笑った。
「殿の考えていらっしゃることは、わたくしにはちゃんとわかっておりますのよ?」
明日、猫殿のところへおいでなのでしょう?と彼女は口を尖らせて政宗の耳をひっぱった。
「いででででで!!!Stop!!Stop!!」
「このぐらいですんでおりますこと、感謝なさいませ。」
肩で大きくため息をつき、そして仕方のない人、と彼女は政宗を許した。
「おーいてぇ。おっかねえ嫁さんだ。」
政宗はのどの奥でくつくつと笑い、もう一度しっかりと愛姫の体を抱いてやった。
政宗は幼いころから母から厭われていたから、女を抱くことはできても女に守られることを知らない。
こうして彼女を抱きしめていると、そうすることで知らず知らず彼女に守られていたことを感じる。
今日も、明日も、明後日も。そうであればいいなんて、本当に本当に男は身勝手な生き物だ。
「愛。」
「はい?」
ふいに名を呼ばれた愛が政宗を見つめる。
政宗は愛をだきしめたまま、ゆっくりと月を仰ぎ見た。



「愛。」
「はい。」
「…愛。」
「はい。」
「愛。」
「ここにおりますわ。政宗様。」
「俺もここにいる。」
「はい。」
「今はここにいる。」
「はい。」
「愛。」
「はい。」
「ここにいる。」
「はい。」



穴なのだ。
と政宗は思う。



ささいな穴はいつも政宗の一番大切なところに開いている。
その穴はこの先もずっと埋まることはないだろうけれど、それはそれでいいのではないか。
傍らに小さく強い存在を抱きしめながら、いまはただそう思う。