何もかも知ったら 何よりも大好きな


どうしたら、笑ってくれるのだろうと、いつもそればかり考えていた。




−−−長月。

豊後国より、幸村の嫁がやってきた。名前は安岐姫。年は14とずいぶん若く、それはそれは笑顔がかわいらしい姫君だとうわさされていた。というのも、幸村は彼女が嫁いできてから一度も彼女の笑顔をみたことがない。
幸村が話し掛けてもうつむいたり、不安げな顔をしたり、おびえたり、てんで話にならない。そのくせ、親方様や佐助や他の部下の前ではころころとかわいらしく笑うのだ。
佐助からは「旦那ぁ、さては初めての晩になんかやらかしたんでしょう?」などとからかわれたが、姫がまだ幼いこともあってか、俗にいう夫婦の契りを交わしたことはいまだ、ない。ので、粗相はない(はず)。(佐助にはあとで大車輪をかましておいた。破廉恥な輩にはそれ相当の罰を。)
かといって、彼女が内気な姫君かと思えば、かわいらしい顔(かんばせ)とその華奢な身体に似合わず、武芸に長けており、自分と共に合戦場を縦横無尽にかけめぐっている。
それで親方様にほめられようものなら、破顔一笑。そのくせ幸村には一度も笑いかけたりしないし話し掛けてもこない。

(確かに俺は武芸しか脳のない朴念仁だし、なんの面白みのない男だが。)
それにしたって一生をそい遂げる夫婦だぞ。
幸村にしてみれば面白くないことこのうえない。
いつも自分に笑いかけろとは言わないが、話ぐらいできないだろうか。どうしたら貴女は他の者に接するように、俺に接してくれるのだろうか。そればかりが頭を悩ませ、修業にも身が入らない、なんという体たらくであろうか。
いかん!いかん!!と首を振って今日も訓練場で一人槍の稽古に勤しんでいた。

本日は晴天也。
ふと稽古の手を止め、空をあおぎ見ると、鱗雲の間を鳶がくるりと輪を描き、どこぞへと飛んでいった。
久々の休みを言い渡された幸村は、特にやることがなかったので、結局城の訓練場にやって来て、ひとり己の鍛練に時間を費やしていた。
屋敷にもどっても安岐姫と顔をあわせなければいけないし、そうなっても何も話すこともない。
(話そうとすると、逃げてしまうではないか。
あのような顔をされるのは、俺とてつらい。)

実を言うと、豊後国からやってきた安岐姫を一目見た時、なんとかわいらしい姫君だろうかと心を奪われていたのは幸村のほうなのだ。
まるで陶器のように透き通った白い肌と、愛らしく桃色に染まった頬。
この姫君が一生、自分と添い遂げてくれるのかと思うと、胸が高鳴った。

(安岐殿。どうしたら貴女は俺に笑いかけてくれるのだ。)

望むことはただ一つなのに、いくら月日が変っても、時はなんにも解決してはくれない。
「安岐殿、俺はただ貴女を好いているだけなのだ。」
それすら貴女は許してくれないのだろうか。

背後にある茂みから、ぱきんっと小枝が折れる音がした。
「なにやつ!?」
その音と気配に、幸村は背後を取られたと舌打ちをし、槍を低く構えた。
「…名を名乗れぃ。俺は今、猛烈に機嫌が悪い。命はないと思え。」
とびきりにらみを利かせて音の鳴った方を凝視すると、そこから現れたのは、安岐姫だった。
「…安岐殿?」
おずおずと茂みから出て来た安岐姫を見て、幸村は頓狂な声をあげた。
まさかまさか、かような場所にこられるとは。しかしそれにもまして先ほどのでかすぎるこっぱずかしい独り言をこの女(ヒト)に聞かれたのではないか。ああ、ああ、ああ。
相変わらず忙しく幸村の頭はぐるぐるぐるぐる回る。
とりあえず、槍の構えをとき大きく深呼吸。
「あ…あきどのではないか。かかかかかようなところへ、なにようかな?」
…したが声は悲しい程裏返っていた。
「お稽古中ごめんなさい。お邪魔するつもりはなかったんです。」
安岐姫はぺこりとかわいらしく頭を下げた。
「…邪魔などと…そのようなこと。顔をあげてくだされ。」
本当に?と安岐姫が不安そうな顔でこちらをみるので、本当に、と幸村は笑ってみせた。すると、安岐姫の顔がぱあっと輝く。
「…源二郎様に笑って頂けた。」
「…え?」
笑って頂けた!と嬉しそうに安岐姫が飛び跳ねる。あれだけ幸村が望んでも見ることができなかった笑顔をふりまいて楽し気に微笑んでいる。
「安岐殿、それはどういう…。」
あ、ごめんなさい。とまた安岐姫はかわいらしくおじぎをして、幸村にむかって微笑んだ。
「源二郎様、いつも恐いお顔。だから安岐、嫌われているのかと思っておりました。」
恐い顔?と幸村は自分の顔をぺたぺたと触る。確かにほめられた顔ではないとは思うが、このかわいらしいヒトをおびえさせるくらい、恐い顔をしていただろうか?
「…ええと、それとね。」
もじもじと恥ずかしそうに、安岐姫は頬を染める。
「初めて源二郎様にお会いした時、あの…あまりに…その…。」
最後の方は声が小さすぎて良く聞こえない。
「安岐殿、申し訳ないがよく聞こえん。」
「わわわ。ごめんなさい。あの、その…。」
初めて源二郎様にお会いしたときにね?と恥ずかしそうにけれどどこか嬉しそうに笑ってみせながら、安岐姫は幸村の耳元で続きをそっとささやいた。




「     」




それを聞いて、幸村は自分の顔がかああっと熱くなるのを感じた。

「安岐殿、俺はてっきり貴女に嫌われているかと!!」
「まあ、それは安岐だって思っておりました!」
「だって貴女はいつもおびえたようで俺だけには笑いかけては下さらなかったし!」
「だって貴方はいつも怒っているようで私にだけは笑いかけては下さらなかったし!」
「てっきり俺は嫌われているかと!」
「てっきり安岐は嫌われているかと!」

一通り言い合いをした後、二人は顔を見合わせてにっこりと笑った。
「すべては杞憂ということですな。」
「はい、全部杞憂でした。」



かくして。

その後、親方様がたまの休みを部下に言い渡すと、訓練場では誰の姿も見ることがなくなった。
代わりに風景が見事だと評判の丘の上で、若い夫婦がひな菊の花を手に、楽し気に散歩する姿がみられるようになったとは、武田家お庭番の弁。

「ときに源二郎様。さきほどの。」
「…さきほどの?」
「さきほどの大きな独り言を、今一度、安岐の前で言って下さい。」
「なっ!!ならぬならぬならぬならぬ!!そんなことはこんなところでは言えぬ!!」
「…源二郎様のケチ。」
「ケチ?!」
「ええ、ケチです。」
「…ならば、安岐殿。貴女も先程俺に耳打ちしてくれた言葉を、ここで言っていただけるか?」
「え?えええええ?無理!!無理無理無理無理!無理です!!」
「で、あろう?」
「…はい。ごめんなさい。」
「だから、今日は早く帰って。」
「一緒に。」
「一緒に。」
「たくさんの。」
「たくさんの。」
「話を。」
「話を。」
「しようではないか。」
「しましょうね。」