「二人ぼっちの世界」





奥州の冬は永く寒い。
永遠に続くかのような白銀の世界が城の庭先に広がる。
日はまだ昇らず、夜の闇はまだ濃い。愛姫は夜着に簡単な着物を羽織って、独り庭をみつめていた。


ああ、寒い。


小さく呟いて凍えた手に息を吹き掛ける。柔らかな吐息はほんの一瞬だけ愛姫の指先をあたためたが、すぐにかじかんだ。

結局の所、なにをしてもなんのなぐさめにもならないのだ、と愛姫は思う。
そういうふうな時代に、そういうふうに生まれてしまったのだから、それは多分仕方のないことなのだ。

愛姫はゆらりと頼りなく立ち上がり、なにをすることもなく柱に寄り掛かった。
自然と涙がこぼれてくる。ぽろりぽろりとこぼれ落ちる涙は愛姫の冷たい頬に生暖かい感触をのこした。

ー−ーこのような時期をすぎて。

何度目かの春が来て夏が来て秋が来てまた冬がくれば、それは仕方のないことだったのだと許すことができるのだろうか。
そんなふうにあの人を許すことができるのだろうか。

「田村の従者に政宗様暗殺の手引きをしたものあり」

噂だ、と鼻で笑うように政宗が言った次の日、実家から輿入れの際につれて来た愛姫の乳母と侍女は一人残らず切り捨てられた。

「何故殺したのです。」
言ってはいけないと思いながらも問いつめずにはいられなかった。

ー−ー何故、殺したのです。

政宗は答えなかった。
愛姫も武人の娘であるし、この伊達政宗という男の元に嫁ぐと言うことがどういうことだか分かっていたから、『何故』殺したかなんて理由はわかっていた。わかってはいたけれど、それでもどうしても聞かずにはいられなかった。

「…何故、殺したのです。」
愛姫は言葉の一つ一つを噛み締めるように吐き出すと、その場に泣き崩れた。
空が遠い。夜明けが遠い。夜が濃い。闇が近い。
愛姫の押し殺した泣き声はちいさくちいさく庭に響いた。

愛姫にとって乳母は母親同然の存在だった。幼き頃、遠く国を離れこの伊達藩に嫁いできて、心細い時も悲しい時もいついかなるときも彼女は愛姫のそばに居た。
「奥州はどこにいっても寒うございますなあ。」そういって、独り寝が寂しいとだだをこねる愛姫を自分の布団に招き入れ、朝が来るまで抱きしめてくれた。「愛姫さまのおみ足は氷のように冷たい。」と苦笑しながら自分の太ももにぴったりと愛姫の足をはさみ、温めてくれた。
政宗が初陣を迎え、不安で不安で仕方のない時には「愛姫様がそんな不安になってどうなさいます!夫君を信じることが奥方の勤めにございますよ!!」と叱咤してくれたのも彼女だった。

いつもいつもいつも。
悲しい時も辛い時も母以上に愛情を注いでくれて、政宗と愛姫のことを心より心配してくれていたのに。

もう、いないのだ。
あのやわらかでやさしい存在は。
どこにもいないのだ。

そう思えば思う程、涙がとめどなくこぼれ落ちる。
真相は今となっては、何も分からない。もしかしたら本当に乳母が政宗の命を奪うように、命ぜられていたのかも知れない。それでも乳母の残してくれたやわらかでやさしい思い出を、すべて嘘だとは思いたくなかった。

もう、眠らなければ。

泣きつかれてぼんやりとした頭で、愛姫は柱にもう一度寄り掛かった。
まんじりともせず時はすぎていく。
あの日から、愛姫は食事と睡眠をあまりとらなくなった。心配した小十郎や成実がなにかと気にかけてくれてはいるのだが、それに答える気にはなれなかったのだ。政宗とも、もう何日も話をしていない。
うすぼんやりと月明かりでてらされた雪景色があまりに美しすぎて、愛姫はまたさめざめと泣いた。

「ヨシ。」

さえざえとした空気の中、その声は凛と響いた。愛姫は自分の本当の名を呼ばれても、振り向かなかった。
「ヨシ、ここは寒ぃ。
はやく部屋に入れ。」
それでも自分をいたわる声はじんわりと胸の一番奥にとどいて、どうしようもなく愛しく思う。
「ヨシ、聞こえてんのか。」
「…政宗様。」
「なんだ。」
「政宗様。」
「…どうした。」
愛姫はゆっくりと振り返り、政宗をみつめた。

「わたくしごと切り捨てて下されば良かったのに。」

政宗は愛姫と向き合ったまま、微動だにしなかった。
一陣の風が二人の間を通り抜けていった。
じりじりとしたいらついた空気が流れる。

(どうしてこの人はだまっているのだろう。
私はこの人にとてもひどいことを言ったのに。)

政宗が、たくさんの家臣にかしずかれていても、何万石という城の城主であっても、愛姫以外のだれも心の中に侵入させないことなど、知っていたのに。
知っていたのに、愛姫はあえてそれを口にしてしまった。
愛姫が政宗のそばを離れると言うことは、どんな形であれ政宗をひとりぼっちにさせるということなのに。

「ヨシ。
 嫌なら俺のそばをはなれろ。」

政宗は表情を変えぬまま、静かにそう言った。
ピンっと張り詰めた空気が、政宗の言葉で寂しく震える。
「俺はこの先も容赦なくお前の大事なものを踏みにじる。
 小十郎も、成実も、綱元も、必要なら切る。
 そのたびお前が胸を痛めて泣くのなら、お前は俺のそばから離れろ。」
吐く息が白い。
それ以上に愛姫の目には政宗の顔が白く映った。
政宗は、生きているのに生きていないような淀んだ瞳で、愛姫をじっとみつめていた。
この人のこんな瞳をみたのははじめてだった。
「勝手かもしれねえが、俺はお前のそんな顔は見たくねえ。だが、これから先、俺の両手は今以上に血にまみれていく。人を泣かしていく。奪い、傷つけ、犯し、ふみにじる。それが独眼竜政宗の生き方だ。それを許せとか、愛せとか、俺はお前にはどうしたって言えねぇ。」

だから、嫌なら俺から離れろ。
政宗はそう言って苦しそうに笑った。


ああ。


「政宗様。」
言葉より早く、愛姫はその両手で政宗の頬を包んだ。
自分の手はとてもつめたいと思っていたのに、それにもまして政宗の頬は凍てついていた。
まるで氷のようだ、と愛姫は思った。
「政宗様、政宗様、政宗様、政宗様。」
愛姫が政宗を呼ぶ声が暗い夜の闇に響く。
政宗は何も言わなかった。
何も言わないかわりに、遠慮がちに愛姫の腰に手を回し、そして強く抱き締めた。
「許してくれと、言えねぇ俺で、すまねぇ。」
政宗の身体は本当に氷のように冷たく、愛姫は夢中になって彼の身体を抱き締めた。
それでもまだ、彼のやったことを許せはしなかったけれど、この大きくて弱い人を抱き締められずにはいられなかった。

「ごめんなさい、政宗様。」
「馬鹿。お前が謝ってどうすんだ。」

「でもわたくしは」
「あなたさまを」
「ひとりに」

ひとりにしてしまうところだった。

馬鹿、と政宗はもう一度小さく呟いた。
「俺は独りにゃなれてる。」
お前を独りにしてしまったけどな、と政宗はうめくようにつぶやいた。自分から乳母や持女を奪ったことを言っているのだろう。
愛姫を抱く、政宗の手に力が入る。
政宗様、と愛姫はもう一度確かめるように小さく呟いた。
「許しませんわ。
わたくしから乳母を、持女を、わたくしのやわらかな記憶をふみにじったこと、決して許しはいたしませんわ。」

それでも政宗様。

「わたくしは独りぼっちではありません。
あなたさまと二人ぼっちです。」
永遠に二人ぼっちです。
そう言って笑おうとしたがうまく笑えなかった。
愛姫の引きつった頬を、政宗のつめたい指先が包む。


「俺を許すな。」
「許しませんわ。」
「絶対に許すな。」
「絶対に許しません。」


でもひとりぼっちにはいたしません。
わたくしたちはこの世界の中でたったふたりぼっちです。

嗚咽を飲み込んで、愛姫は一つ一つの言葉を大切に大切に発した。
政宗が愛姫を抱き締める腕の力が強くなる。夫がどんな顔をしているか全くわからなかったけれど、殿方のそういう顔を見るものではないことを愛姫は知っていたから、
静かにその悲しい竜の腕の中に身を預けた。

やがて東の空が白みはじめた。
夜があけるのだ、と愛姫は政宗の背中越しに静かに日の出を待った。
政宗の身体は今尚、氷のようにつめたかった。



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